煮えたぎる怒りと凍りつく敵意―自己愛性人格障害者 | 自己愛性人格障害者との闘いの日々
 

煮えたぎる怒りと凍りつく敵意―自己愛性人格障害者

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自己愛性人格障害者のタゲ子
管理人

モラルハラスメント仕掛け人の正体は自己愛性人格障害者です!

プロフィール

 

その人から怒りを感じれるか?


出会い~数年間に自己愛性人格障害者から感じていた違和感が、ハッキリと敵意だ!と分かるようになった私です。

わが社の自己愛性人格障害者である(素人判断です)自己愛ハンニャの最初の印象は幼い!でした。(今思うと、その幼稚なオーラにギョッとしていた自分でした。。)

精神が未熟で「困ったちゃん」になってしまっている人はどこにでも居ますし、その幼稚性は後からだんだん分かってきます。
ですが、しゃべらなければ(AHOが)バレなかったり、特に女ボーダー(境界性人格障害者)やメンヘラは「おっ!か~わい~い」と誰もが思ってしまう不思議な魅力をもっていて無条件に引き込まれたりして、その正体を見誤ったりしてしまいます。

ボーダー(やメンヘラ)は攻撃的で、その精神は風が吹くだけで壊れそうなほど脆弱なのですが、しゃべらなければ「幼子がそこにポツンと捨て置かれている。。」というほどの「幼子オーラ」は出していないように思います。(ただただ「かわいい」に目が奪われてしまってその人格にまで思いやることがないから?)

人間の記憶がいかに曖昧なものかを実験して報告している科学者がいるように、わたしの自己愛ハンニャへの第一印象というものが100%正確だとは言えないと思いますが、「驚きと共に幼い!」と思った―感情がともなった記憶だったから、通常よりは明確に記憶していると思います。

(高校時代くらいにみなさんもあったかもしれませんが、意味も分からないまま古文を暗記をするのは難しいけれど、男子などがその古文をエッチな替え歌仕様にしたのを聞いたら一発で頭に入った!という経験です。それと同じだと思います♪)

(うちの自己愛性人格障害者は、画像のような感じ)

今まで見たことも聞いたこともなかったレベルの幼さをもっている社会人という感じでしょうか。

とにかく、自己愛ハンニャとは挨拶を交わす程度の人間関係でしかない最初のころ、「自己愛ハンニャの姿を見、その声を聞くだけ」という状況で「幼い!」「???」「(え”ッ!何?これ?)という感じ」という印象を受けた私でした。

実はわたしはその時、無意識では驚愕していたのだと思います。

なにせ、企業に大人の人間の肉襦袢を着た、どこからか日本語に聴こえる音声も出し、自分の目の前にきて「こんにちは」と話しかけてくる「イキモノ」がそこに居るのですから、(無意識下では)そのように見えたのでしょうから違和感が噴出していたのでしょう。

その違和感は、他人に言っても理解してもらえないような、↓

・キツネにつままれた感じ
・臨死体験をした
・亡くなったバアチャンの声が聞こえた
・デジャブ

等々のレベルに匹敵する「違和感」であることは間違いありません。

実は、私は、自己愛ハンニャのサイコパシーレベルが低かったから助かっています。

自己愛ハンニャは(私の素人判断では)発達障害や精神疾患も入った自己愛性人格障害の部分が突出した障害者に違いないと思っていますが、元々のIQやEQなのどの知能指数(地頭)や学力や教養度が低いからサイコパスにはならず、レベルの低い(多くの人にバレてしまう)自己愛性人格障害者止まりだったと思います。

ああ、ヤッパリ耳なのでしょうか?

顔の印象が良くない声だけれども感情が入っている声顔の印象が良すぎるくらいの声だけれども感情が入っていない声を聴き分ける。。。

○ウム真理教事件のときに日本音響研究所が音の解析で活躍しましたが、音がグラフになって出てきてその分析の結果を出演しているコメンテイターがさらに分析モドキ?をしていました。
声の周波数は分かっても「感情が入っている声」かどうかは最終的に人間の耳→前頭葉→心?自我?人格?受信機?が判断するようです。

絶望した人の息をかけ続けるとマウスはしんでしまうそうです。

煮えたぎる怒りをもった自己愛性人格障害者が何をどんなにソフトなもの言いでしゃべっても、こちらの受信機が正常に働くなら、その声にまとわり付いている怨念オーラやその目に宿っている妬みオーラやその指先にまでに行き渡っている怒りをその所作から感じるのだと思います。

推測ですが、マウスに自己愛性人格障害者の息を吹きかけ続けたなら、きっとマウスは潰瘍ができるなどして体調に異常をきたし遂にはしんでしまうことでしょう。

あなたの身近に居る「煮えたぎる怒り」をもった人(=自己愛性人格障害者)をあぶり出すために、是非、「常時ニコニコしている人」に対して心の深い部分で疑いをもっておくことを提案します。

わたしなどは(よー知らん人に)ニコニコする必要などない!と思っている「世渡り下手」(周囲の評価です♪)な人間ですから、余計に常時ニコニコしている人には「何らかの障害をもっているはず」とまで思っています。

自己愛性人格障害者のタゲ子
管理人
シクシク鳴く女、「何でも相談しろよ?」と言う男も怪しい。。

(独りで泣け!妻だけに言え!)

自己愛性人格障害者のタゲ子
管理人
世渡り下手?そんなこと誰が決めたんや?その評価が正しいという根拠みせろ?

自己愛性人格障害者の二極言動

会社等の組織で自己愛性人格障害者が中心になっている場合(自己愛性人格障害者が役付きの場合)、
事前に考える時間があるような「社内回覧」「部下への指示」「会議での発表」等々は「立て板に水的」な感じで立派な文言が含まれていて、一見するとまともに見えますし、??と思う人もいるかもしれませんが大概は問題にはならず、自己愛性人格障害者の言い分はやり過ごされます。

ところが、アドリブが必要な「営業現場」「イベント現場」では自己愛性人格障害者は全く役に立たないどころか、必ずトラブルをひき起こします。
会社の場合、わが社なら自己愛ハンニャは営業部長の立場にある訳で「会社で一番頑張っているのはアタシです」と吹聴するくらいですから、営業をバンバン取ってこなければなりませんが、自己愛ハンニャはこの7年間で部下から横取りした1本と社長がくれた1本だけしかないのです。
つまり、7年もの間、営業にでかけることが全くなかったのです!

ところが、毎年会社全体が売上目標を達成しているのは「特別有能な自分のおかげ」だと思っているのです。(ここが精神病的なのです♪)

自己愛ハンニャが何故営業が苦手なのか?
立て板に水的にはしゃべれますし「アタシの口はすごい」と自慢までするくらですが、成約させることができないのです。

おそらく、取説マンの自己愛ハンニャは、A~Zの場合までの取説は作っているでしょう。(立て板に水の原因)

ですが、営業現場では、あ~んの場合もあるし、A’~Z’の場合もあって、そこにはそれぞれ人間の感情から発せられた「ある種の感情」がいつも載っているのですから、感情を理解できない自己愛ハンニャが対応できることはありません。「無意識に自分には無理」と思っていることでしょう。

ある自閉症の会社員が上司から「この図面をヤイておいて」と言われて本当に焼いてしまったという話を聞いたことがあると思いますが、自己愛ハンニャは、自分の作った取説に載っていないことを相手から聞かれた時は対応できなくて、相手の言った事について知っている限りのことをしゃべるだけですし、「煮えたぎる怒り」の塊(周囲は全員敵だという妄想)ですから、必然的に一つ一つの言葉に「怒り」を載せてしゃべっていきます。

そして、自己愛ハンニャがしゃべればしゃべるほど相手を不快にさせるのです。
そのため、自己愛ハンニャが関わった場合、100%の確立で(見事です)そこにトラブルが発生してしまうのです。

わが社では、自己愛ハンニャの正体を知ったほんの一部の社員間にだけ「自己愛ハンニャだけは行かせるな!壊したい話があれば自己愛ハンニャを行かせろ!」という不文律が生まれています。

煮えたぎる怒り=周囲は全員敵だという妄想

わたしたちは視覚に騙される脳ミソをもっていますから、

・いつもニコニコ顔(を作ったり)
・優しく接してくる(演技してくる)

という言動に惑わされて、自己愛性人格障害者がもっている「煮えたぎる怒り」に気付けません(気付きにくい)。

ところが、知的障害者とされているダウン症の人や知的経度・中度の人たちは、視覚優位ではないのでしょうか?命と命のレベルで直接コミュニケーションを図るのでしょうか?自己愛性人格障害者のインチキさを瞬時にして見抜いてしまうようです。

わが社では知的障害施設とも取引があって、会社から社員が定期的に訪問することになっています。

そこに「ポアンちゃん」と呼ばれているダウン症の中学生がいるのですが、わたしが行くとぽアンちゃんが抱き付いてきて言葉にならないけれども何かを訴えてきたり、帰るまで手をつながされ?仕事をこなす間ずっとポアンちゃんが離れなかったりします。
施設の職員から「ムーミンさんのことが大好きなんですよ」と聞き、ちょっぴり「迷惑かもしれない」と感じていた自分でしたが「ありがたい」と思えるようになりました。(自分では子供嫌いだと思っていたのです♪)

何が言いたいのかというと。。。
この施設は以前から、自己愛ハンニャと(わたしが発達障害か境界知能を疑っている)ノーカンメが担当しているのですが、最初、わたしは自己愛ハンニャに同行してこの施設に行っています。

その時は私は何もおかしいとは感じませんでした。しかしそう言えば。。
自己愛ハンニャはポアンちゃんをはじめ他の子ども達にも声をかけていましたが、誰も自己愛ハンニャに反応することがなかった。。と記憶しています。

2回目のときも私は自己愛ハンニャに同行して同施設に行きましたが、やはり誰一人として自己愛ハンニャに反応する子どもが居なかったのです。

子ども達は自己愛ハンニャのもっている「煮えたぎる怒り」をダイレクトに感じていたのですね。スゴイ!

この時から、わたしは知的障害者の人間度の高さについて考えるようになりました。

ポアンちゃんは、花や葉っぱは付いていないけれど、根っこがしっかり張っている!

一方、自己愛ハンニャは、豪華な花を咲かせているように見える(パクッてきたものばかりで身を飾っているだけ)けれども、根っこが無いんだ!

ということではないのかな?と。。

で、自分の根っこはどうなんだ?と考えたとき、ポアンちゃんよりも貧相な根っこなのではないか?
花を咲かせることに重点を置いているようにも感じるし。。根っこの一部が腐っているかもしれないし。。

ポアンちゃん並みの根っこをもっていれば、自己愛ハンニャから感じる違和感を「煮えたぎる怒り」だと、最初から見抜けていたのではないか?と思ったりします。



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